ビルドンブング

自由でシンプルな生活を求めて試行錯誤する記録を毎日更新中

食事の楽しさはどこにある?

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質素な食生活の話をすると「そんな食生活は楽しくないのでは?」というような意見をもらうことがある。
答えは「楽しくない」である。
では質素な食生活でなくなったら、楽しくなるだろうか?
毎日高級食材のフルコースを食べれば、楽しいと感じるだろうか?
最初は美味しさで感動するかもしれない。
その感動は何度食べても変わらないかもしれない。
けれどそれは感動であり、楽しさではない。
「美味しい」と「楽しい」は別の感情だというのが私の認識だ。

毎日美味しい高級料理を食べているお金持ちの家のお嬢様が、しかし両親が仕事で家におらず一人での食事に寂しさを感じている、というようなシーンはアニメや漫画でお馴染みだったりする。
あれはフィクションだけれど、一人で食事をしている時点で楽しさに期待することができないことは簡単に想像できるだろう。
逆に、一緒に食べる相手がいて、その相手と自分の相性が良ければ、それだけで楽しそうだ。
よほど酷いものでなければ、食事の内容はほとんど影響しないものと思える。

飲み会でも、ほとんど飲み食いせずに(酒は飲むけれど)話してばかりの人がいる。
楽しそうだ。
その店の酒があまり美味しくないと、楽しそうに話したりする。
安い料理を食べて「やっぱり安いと美味しくないな」と笑っている。
とても楽しそうだ。

最近の私は食事の際にラジオを聴いている。
とても面白く、一人で笑ってしまうことも珍しくない。
生活においてラジオを聴くタイミングは食事の時だけだから、食事と合わせてラジオも楽しみだ。
そう、「楽しみ」である。
面白いラジオを聴くのは楽しみだ。
空腹の時は食事が楽しみだ。
「楽しみ」に思うことと「楽しい」と感じることは同じ意味だろうか?
少し違う気がするけれど、少なくとも私は毎回の食事を楽しみにしている。
食事の内容は質素だけれど、空腹ならそれでも楽しみだし、食べながら聴くラジオも楽しみだ。

「そんな食生活は楽しくないのでは?」という冒頭の質問に戻ろう。
本音で答えるならば「食生活というのは楽しくないといけないのですか?」という質問を返すことになる。
食生活そのものに楽しさはおよそ見つからないけれど、食事を取り巻く環境に楽しみはある。
それなら十分であり、「食事は楽しくなければ」と努力することは必要ない。
結果的に楽しいならそれに越したことはないけれど、無理にそれを目指す必要はないのではないだろうか。
世の中には楽しいことはたくさんあって、他のことで楽しさや楽しみを得られるなら十分だろう。

少なくとも、他人から「楽しくないのでは?」と言われて「楽しくないのか……」と悩む必要はない。