ビルドンブング

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食べながら考える【イーティングシンキング】

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考えながら食べているのかもしれない……
さて、哲学がしたいわけではない。
子供の頃は常にテレビがついているような環境で、テレビを見ながら食事をすることが普通だった。
一人暮らしを始めてからは、食事の準備や片付けを自分で行わないといけないので、リビングとキッチンを行き来する。
ずっとテレビの前にいるわけには行かないので、ラジオを聴くようになった。
アニメを見ながら食べている時期もあった。
アニメ1話分の時間を使ってゆっくりと食べることで、早食いを防止する効果がある。
これは未だに有効な手法だと思っている。

 けれどYouTubeを見ながら食べるのはNGである。
あれは動画によって再生時間がバラバラだし、続けて見たくなる動画がサジェストされて抜け出せなくなるのもよろしくない。

 最近は、何も見ていない。
ただ食事をしているだけである。
ぼんやりとしている。
けれど、ぼんやりとしていても、何も考えずにいられないのが人間である。
何も考えないということができないのが人間である。
というわけで、何事かは考えている。
そして、その考え事が、食事をしながらだと妙に捗るのである。
前に、紙に書いて考え事をする話をした。
その中で、紙に書くという行為が程よい抵抗になって、考え事に集中できているのではないか、というような推測をしたわけだが。

 これと同じことが、食事中の考え事でも発生しているのではないだろうか。
つまり、食事という行為が抵抗となって、思考があちこちに散ってしまうのを防いでいるのではないか、と。
これまで、食べるのに使うのは手と口、ちょっとだけ目だから、耳が空いている、アニメでも見よう、ラジオでも聴こう、という発想だった。
つまり、耳を使っていないのがもったいない、という考えだ。
頭も使っていない、という発想ができなかったのが過去の私である。
食事なんて毎日行っているものなのだから、頭を使わなくてもできる。
シャワーなんかも同様だ。
シャワーを浴びていると考え事に熱中してしまうことがないだろうか?
頭を使わずにできる作業をしていて、けれどその作業が程よい抵抗になっているからだ。
そう、耳も空いているけれど、頭も空いている。
どちらかを使って、どちらかを暇なままにさせておくとなったら、頭を使って耳を暇にさせておく方が得が多いことは理解できるだろう。
だから私は食べる時に考え事をするようにした。
それをする価値を見出せるくらいには、考え事が捗る。
試してみるといいかもしれない。
特に捗らなければ、今まで通りに戻せば良い。
試さないよりはマシである。