ビルドンブング

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エッセイを読むとブログの文章がすらすら書ける?

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今週のお題「かける」

最近、エッセイを読むのにハマっている。
とは言っても「エッセイなら何でもいいからとにかく読みたい!」という状態ではない。
きっかけは森博嗣のエッセイだ。
氏の小説は好きで何度も読んでいるのだが、それ以外の書籍には手を出していなかった。
それがふと図書館で100の講義シリーズを読んでみると、面白いではないか!
この100の講義シリーズを一通り読んだのち、エッセイの小説とは違う面白さに惹かれて始めた。
今は土屋賢二のエッセイを読んでいる。
理由は100の講義シリーズで時たま名前が出ていたからだ。
私が好きな森博嗣が読んでいるエッセイなのだから、面白いはずだ、という理論である。
まあ、きっかけなんてそんなものだろう。
好きな人が好きなものは無条件で好きになれたりするのだ。
だから彼氏や彼女ができたのをきっかけに、今までとは違った世界が広がるような感覚になる。
今までは自分で「やるかどうか」を考えて「これはやらないかな」と結論づけていたものでも、彼氏彼女が「やりいたい」と言えばやるだろう。
こちらとしては「それがやりたいわけじゃないけど、彼女がやりたいということを一緒にやりたい」わけで、それが今まで一人の時には生まれることのなかったきっかけになるのだ。
話が逸れた。
そう、逸れるのだ。
エッセイを読んでいると、こういう風に自分が書く文章にも影響が出る。
私が直近に読んだ文章に影響されやすいだけかもしれないが。
エッセイを読んだ後にこのブログの記事を書くと、妙にスラスラと文章が書けるのだ。
だが、それがいつもの淡々とした文章ではなく、今この文章みたいに、ウネウネとした文章になる。
別の言い方をすると、この記事のタイトルで言っているように、文章が踊るというか。
つまり、文字数が増えるばかりで内容は大して変わらないのである。
具体例を示そう。

www.bildon-yuma.com

 

この記事がまさしくエッセイを読んだとすぐに書いた記事だ。
インターホンをちゃんと戻せず、宅配便に気づけなかったというだけの内容である。
それがなんということだろう、1,000文字を超える記事になっている。
まあ、この場合は助かったと言えよう。
一応、目安として1記事1,000文字程度を目安に書いているので、エッセイに感化された状態でなければ、この記事は書けなかった。
実はインターホンの子機を戻し損ねたというエピソードは半年以上前のことだからだ。
その際に「ブログネタに使えるかな?」と思ってメモには残していたのだが、いつ見返しても「いやいや、これで1つの記事になるほどの文章は書けないだろう」と記事として文字起こしするのを見送っていた。
しかしエッセイを読んだ後だと、そういった日常の何気ないことを文章にしたいという欲求に駆られ、その欲求のままに書いてみるとそれなりの文字数となって、記事として公開できるものになった。
まあ「ものになった」というのは文字数だけの話で、内容が記事として有意義なものになっているかどうかは謎である。
その謎を解き明かすつもりもない。
今は、エッセイパワーで強引にブログ記事にしてしまえるのでは、と期待しているくらいなので、下手なことをして自らその期待を打ち砕いてしまうような真似はしたくないのだ。
私としては、些細なことでも1つの記事にしてしまえるパワーに魅力を感じてはいるが、果たして読む側にとってこれが良いことなのか悪いことなのかは不明だ。
どちらかというと後者な気がする……。
だが、こんな個人ブログでそこまで高尚な文章を目指さなくても良いのでは、という甘えもあったりする。
その甘えの結果が、この記事だろう。
ほら、もう1,500文字だ。
別に、意図的に文字数を伸ばそうとしていたわけではない。
思いつくままにパタパタとキーボードを叩いていたらこうなった。
いつものブログ記事なら先に見出しを3つくらい決めて、書きやすいところから書きながら全体のバランスを見て多少の調整をするのだが、この文章はそんなことせず、頭から思うがままに書いている。
だから目次もない、どこで区切ればよいのかもわからない文章になっている。
何だろう……、もしもブログ記事を毎日書いて更新したいけどネタがないとか、ネタがないことはないけどまとまった文章にするほどのネタじゃないといった悩みがある人は、エッセイにハマれると良いかもしれない。
この記事を読んで「こんな文章でもいい」と思えるのなら、ではあるが。