ビルドンブング

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ぼんやりと見つめられる良い壁

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壁を見つめることはあるだろうか?
みんなスマホの画面ばかり見ているから、壁を見つめる人は少数だと思う。
だが、特に目的もなく退屈だからという理由だけでスマホを見ているのなら、壁を見ている方がまだ有意義だと思う。
一種の瞑想に近い。
どんな壁でも良いというわけではない。
瞑想なので、情報量のある壁はダメだ。
つまり、広告やポスターが貼ってあったり、文字が書かれた壁はNGということ。
できれば無地が好ましいけれど、模様があっても構わない。
個人的に、模様は規則的なものよりランダムな方が好きだ。
規則性があると、その規則がどんなものか考えてしまう。
ランダムなら「ランダムだな」と思って、それ以上その壁について考えることは何もない。
壁によっては凹凸があったりなかったりする。
見つめるだけで触ることはないから、それはどうでも良い。
凹凸がないツルッとした表面の方が良い、という好き嫌いはある。
さて、そういう見つめるのに適した壁、というのは屋外だと意外と少ない。
私も、壁を見つめるのは電車待ちの時くらいだ。
駅には割とそういう壁がある。
向かいのホームにそういう壁がないだろうか?
なかったとしても、線路とホームの段差になっているところは壁である。
そこに広告やらが貼られているのは見たことがない。
今後はどうなるかわからないけれど。
電車の中では難しい。
少し視線を動かせば視界のどこかに広告がある。
まあ、理屈では色々言えるけれど、その気になればどんな壁でも集中して見つめることは可能だ。
壁を見つめているように見えて、実は自分自身を見つめているのである。
自分の外見を写すのが鏡なら、内面を映すのは壁である。
壁を見つめながら考えてみてほしい。
目を閉じてはいけない。
目を閉じるとあれこれ余計なことを考えてしまう。
「壁を見る」という行為を伴うことが大切だ。
人は何も考えずにいる方が難しい。
深く考えずに壁を見つめていても、頭の中ではあれこれ考えてしまうだろう。
その考えてしまったこと一つ一つと向き合うのだ。
それが壁を見るという行為の本質である。

さて、近年稀に見る電波記事になったという自覚はある。
ブログネタのメモに「ぼんやりと見つめられる良い壁」というメモがあった。
本当に記事にするの? という迷いはあったけれど、そのままメモに残しておいても、今後ずっと書けないと思った。
こういうのは、思いついてからすぐに書いた方が良い。
ということがわかっていたので書いた。
何度も述べているけれど、どんなネタでも書こうと思えば1,000文字くらい書ける。
この記事もまた、それを証明する1つの記事になったと思えば、多少は価値があるか。
断っておくが、壁を見つめることに瞑想的な効果があると思っているのは本当である。
そうでないとそもそもこういう記事を書こうという発想にすら至らないのだから。