ビルドンブング

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アウトプットしたものを大事に置いておく必要はない

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漫画やアニメで、小説などの文章を書いているキャラが「やっぱり違う!」と書きかけていた原稿用紙をくしゃくしゃに丸めてその辺に捨ててしまう。
そんなシーンがよくあるけれど、あのシーンを見て「没だとしてもせっかく書いたんだから置いておけばいいのに」「いつかその原稿が役に立つ時が来るかもしれないのに」と思ったりするだろうか?
いや、あれは捨ててしまった方が正しいと私は思う。
その時点で「没だ」と思ったのなら、それを取っておく必要などない。
もともと自分で考えてアウトプットしたものである。
もしも必要になればその時にまた同じようなものをアウトプットできるだろう。
何なら、その時より経験を積んでいるのでより良いものを生み出せるかもしれない。
だがその時に「これは前に書いたものがあるから、それを使おう」とすると、せっかく今ならもっと良いものが書けるかもしれないのに、その機会もなく過去の実力に引っ張られてしまう恐れがあるわけだ。
さて、これは何も原稿を書く作業に限った話ではない。
その場限りでアウトプットしたものを「今は使わないけどいつか使うかも」と残しておくことはあまり意味がない、何なら無駄と言っても過言ではない、という話がしたいのだ。
もちろんそれはアウトプットの内容によるけれど。
例えば、学校に通っていた頃は熱心に黒板の内容をノートに取っていたことと思う。
そのノートをどれくらい見返しただろうか。
およそ「ノートの提出があってそれが成績に影響するから」と仕方なく黒板をノートに写していただけで、それを復習に役立てたことのある人は稀ではないか。
そもそも教科書に書いているようなことである。
教科書を見ればわかるようなことを逐一ノートにまとめておく必要はなく、教科書に書いていないことだけをノートに書いておけば十分なのだ。
ノートの上に「教科書〇〇〜〇〇ページ」とメモして、あとは授業中に得られた教科書に載っていない知識だけを書いておく。
そのノートと教科書をセットにすれば学習には十分なはずだ。
それをまるでノートを綺麗にとることが大事かのような成績の付け方、つまりノートの提出なんてさせるから勘違いを生んで、そのまま大人になる。
黒板の内容をノートに写した、という過程を重んじて、それを大事にするようになる。
自分がアウトプットしたものを保管しておくことがまるで重要なことのように思い込む。
そもそも一度アウトプットした時点で記憶に残っているものである。
「これは前にも書いたことがあるな」とぼんやり思い出せる状態になっていれば十分なことと思う。
認識なんてその程度で事足りるのだ。
だからそれを綺麗に整理して置いておくことにわざわざ時間や労力を使うものではないという持論である。