小説やアニメ、漫画やドラマの内容を、とても正確に覚えている人がいる。
誰々がどのタイミングでどんな台詞を言ってどうなったか。
完全に言えるのだ。
きっとそのコンテンツが好きなのだと思う。
それはそれで構わない。
けれど、自分の場合、積極的に覚えようとは思わない。
好きな作品は別だけれど、それ以外は、キャラクターの名前なんてまあ覚えていない。
もちろん、そのコンテンツに触れている間(小説なら読み終わるまで、アニメやドラマなら最終回まで)はメインキャラクターの名前は覚えている。
そうしないと話についていけないから。
けれど、そのコンテンツから離れると忘れてしまう。
それは単なる区別するための記号だからだ。
覚えておいても使わない記憶である。
これを「もったいない」と感じるだろうか。
そう感じる人が増えているような気がする。
知識としてそれを披露できることをステータスのように扱おうとしているように見受けられる。
それが話題になった時、そういう知識をすらすらと言えることに価値があるような風潮。
私が勝手にそう思っているだけだろうか?
もちろん、冒頭で述べたように、そのコンテンツが好きで覚えているのなら構わない。
「このコンテンツが話題になっているから、周囲の人より細かいところまで内容を覚えて披露しよう」という思惑が透けて見えるような……
それともやっぱり、私が穿った見方をしているだけか?
わかりやすい例としてキャラクターの名前を使ったけれど、他のことに関しても同じだ。
ろくに覚えていない。
誰がどんな台詞を言ったか、結末がどうなったかなんて、覚えてはいないのだ。
いや、覚えようとしていない、というのが正しい。
覚えようとしなくても、記憶に残る印象的な場面はある。
そういうのだけ覚えておけばいいだろう。
それだと側から見たら「にわか」として扱われるかもしれない。
けれど、それは構わないことなのだ。
自ら知識をひけらかそうとしなければ、にわかで構わない。
少ししか知らないくせに知ったようなことを言うからボロが出る。
別に言う必要なんてないのだ。
それが本来の楽しみ方である。
自分がどう受け取ったか、何を感じたか。
それだけを大切にすればいい。
それを人に伝える必要はないし、人のそれを聞く必要もない。
それが一番無駄な行為に思う。
けれど、そこにある種の依存めいたものを抱いている人もいるのだろうなと、それもまた私の勝手な想像である。
コンテンツの内容なんて感覚的に覚えておけばいいと思う
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