すっかり電車移動が当たり前になった。
快適そのものだが、朝の満員電車なんかは空気がどんよりしていて気持ちも身体も窮屈である。
電車移動中は文庫本を読むようにしている。
しかし、満員すぎて文庫本を広げられないような時や、持ち歩いていた本を行きで読み終えた日の帰りなど、本を読まずに電車に揺られる時もある。
そういう時は、何の気なしに周りの客をざっと見回すのだが、そうすると大抵の場合、養鶏場を思い出すのだ。
小学生の頃、学校行事で養鶏場の見学に行ったことがある。
卵を何個か拾い集めただけだったが、ニワトリの多さに圧倒されたものだ。
今までは学校の鶏小屋で飼われているニワトリくらいしか見たことがなかったので、養鶏場の鶏の窮屈さが新鮮だった。
特に可哀想だとは思わなかったけれど、身動きできないほど狭い区画に1羽ずつ分けられ、目の前には常に餌が補充されている。
他にやることがない、というか何もできない状態なので、ニワトリはその餌をただひたすらに食べるしかない。
ニワトリが養鶏場の歯車であることを実感した。
さて、冒頭の電車で他の客を見る件からの繋がりが予想できているだろうか。
今の時代、電車に乗っている人の9割以上がスマホを触っている。
遠目にそのスマホの画面を覗き込んでみると、Twitter、YouTube、TikTokあたりが主だ。
つまり何かしらのコンテンツを見ているわけで。
電車に揺られる人、無限にコンテンツが見れるスマホ。
養鶏場のニワトリ、常に補充されている餌。
この2つが重なって見えるのである。
乗客をニワトリだと見下して悦に浸っているわけではない。
それで言うなら私だってニワトリになっている時はある。
ただただ、養鶏場を思い出す、というだけの話だ。
その度に私は「ニワトリにならないように気をつけよう」と、ポケットのスマホは取り出さず、代わりに文庫本を開くのである。
通勤だけでも片道15分、往復、つまり1日30分の電車移動時間。
この時間をどう使うのが有意義なのか、これから探っていきたいところだ。
もちろん、TwitterやYouTubeを見ることが有意義ではないと言うわけではない。
例えば、そういった娯楽コンテンツを見るのは電車移動の時だけと決めて、他のプライベートな時間を無駄にしない、というのもアリだろう。
だから他の乗客がどういう理由で、どういう考えでスマホを触っているかまではわからないので、やはり私が勝手に養鶏場のニワトリを連想している、というだけの話である。
ここまで書いておいてなんだけれど、なんだか前にも養鶏場に関することを述べたことがあるような気がした調べてみると、回転寿司の様子も養鶏場に例えていた。
養鶏場の例え好きだな私。
それほど小学生の時に見学した養鶏場の様子が印象的だったのだろう。