ビルドンブング

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学生時代からコピー用紙の魅力に気づいていれば

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勉強道具といえばノート。
アナログはもちろん、デジタルでも「ノートアプリ」などと呼ばれる。
そうやって「ノート」と呼んでいるが、その実態は紙束であり、主役は紙だ。
鉛筆やペンで書き込むことができる紙があれば、勉強はできる。
むしろ、紙を「ノート」という形にまとめてしまうことで、余計な制限がかかっているのではないだろうか。
1枚1枚バラバラで、罫線も何もない真っ白な紙。
そんな紙だからこそ、自由自在だというのに。
 

窮屈なノート

学生時代に使っていたノートが出てきた。

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なんて窮屈なノートだろうか。
黒板に書かれたことや、先生が言ったことをとりあえずノートに書いておかないと、という焦りを感じる。
紙面にも心にも、余裕がないのが明らかである。
 
しかし、ノートというシステム上、こうなるのは仕方のないことなのだ。
あらかじめ書く内容や文字量が把握できていれば、もっと綺麗なノートができるだろう。
しかし、先生が板書する内容なんて不確かだし、そこに先生の発言や個人的なメモまで書き加えるとなると、どうなるかわからない。
ひたすら書き込んで窮屈になるか、余裕を持たせていたつもりが、空白だらけでページ数がやたら多くなるか。
 
だから私はノートが嫌いだった。
しかし、ノートの他に選択肢を知らなかった私は、こんなノートのとり方を十数年続けたわけだ。

何もなくて自由なコピー用紙

大人になった私はコピー用紙を愛用している。
学生の頃からこうしていればと、つくづく思う。
罫線なんて気にせず、文字やイラストを自由に配置。
試験勉強の時も、試験範囲だけをピックアップ。
気づいたことを後から書き込みやすい。
ページの並び替えも楽々、というかページという概念がない。
気に入らない箇所があったり、余白が多すぎるページは、後から別の紙に書き直して差し替えもできる。
 
最近なら、スキャンしてデジタル化することも容易だ。
ノートだと、背表紙を切り落とさないと、バラバラにできない。
学生時代にコピー用紙を使っていたら……
学力が劇的に上がるなんて言うつもりはないが、多少はマシな勉強ができていたのではないだろうか

終わりに

何気に、小学校低学年まで使っていた「自由帳」が、かなり理想に近いものだったということだ。
それが、ページ順序や罫線といったものに縛られていく。
あるいは、一枚ずつバラバラなのはいいが、罫線が入っているルーズリーフ。
 
ノート術には多種多様、見た目に綺麗なノートや、要点がわかりやすいノートなど、真似したくなるようなテクニックは探せばいくらでも出てくる。
しかし、ノートとは別のものを使うという根本的な部分から見直しを勧めているものは少なかったりする。
勉強するならノートという考えを、一度見直してみてはいかがだろうか。