今週のお題「苦手だったもの」
今の時代もそうなのかはわからないが、私が小学生の頃には、クラスに1人、いるかいないかくらいの割合で、異常に人前で話すのが苦手な子供がいた。
「異常」という表現は大袈裟かもしれないが、かといって「人見知り」とかそういう言葉で済ませられるほど軽いものでもないのだ。
ではどの程度かというと、人前で話すと泣き出すのである。
国語の授業で教科書の文章を一人ずつ順番に読んでいくことがあっただろう。
自分の番になった時、声が出せず泣き出してしまう。
それくらい人前で話す、というか声を発することが苦手なのだ。
気持ちとしては、人に自分の声を聞かれるのが恥ずかしいというか、みんなが自分の声に耳を傾けている状態に耐えられないというか、何と表現すればいいのか難しいところだけれど、私なりに言うとそんな感じだ。
どうしてそういう気持ちがわかるかというと、私もそういう子供だったからである。
授業中に当てられて、何か発言をしなければいけない度に泣いて先生を困らせていた。
別に、答えがわからなくて言葉に詰まり泣き出すわけではない。
答えがわかっていても、それをみんなの前でいうことがただただ恥ずかしいのだ。
だから成績は悪くなかった。
人前で話すのが苦手なだけ、誇張して言えば、それだけが欠点の子供だった。
ちなみに、成長するにつれて欠点は増えていく。
欠点が見えてくる、といった方が良いだろうか。
子供の頃はある種無敵だったような気がする。
それはともかく、まともに人前で話せなかった私だけれど、中学生になった時には克服していたような気がする。
具体的にどのタイミングで人前で話せるようになったのかは覚えていないが、それはつまり覚えているような明確なきっかけがあったわけではなく、自然に克服したということだ。
人前で話すことよりも、人前で話せないことの方が恥ずかしいと思うようになったのだろうか。
そう思えば、克服した時期と思春期で周りからどう見られているかを気にするようになる時期は重なっているように思う。
だから、仮に子供がどうしようもなく人見知り、人と全然話せなかったとしても、それは自然に治るかもしれないということだ。
思春期になって自意識が強くなると、そういう欠点を自ら治そうとするのではないだろうか。
まあ、自分の話なので誰にでも当てはまるとは言い切れず、あまり強く断言できないけれど。
ただ、運動が苦手だとか、背が低いとか、そういうなかなかどうしようもないコンプレックスよりは、自分の意識の仕方で変えられる部分だと思うので、むしろそういう部分がコンプレックスになっている方が未来は明るいのかもしれない……