ビルドンブング

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「なにくそ精神」みたいなのがないね

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ハングリー精神が一番近いとは思うのだけれど、それとは少し違うとも思う。
ハングリー精神はハングリーを日本語にすればわかる通り「飢えた状態」である。
飢えているから何かを欲して、それが原動力となって動く。
事象に対して得られたものを足りないと感じて、もっと得られるように働きかける行為と言おうか。
さて、タイトルにしている「なにくそ精神」である。
これは、別に飢えているわけではない。
自分では満足していたはずなのに、外部からそれを評価されず、腑に落ちないといった状態だろうか。
まあ「外部からの評価」が欲しくて動いていたのなら、それはハングリー精神とも置き換えられるけれど。
きっかけと、それを続ける原動力は、別にハングリー精神から来るものではなかったはずだ。
それでも、続けるうちに「これはなかなか良いものができているのでは」と思い始める。
そうして満足のいくものが完成するわけだが、どうにも周りの反応が悪い。
ここでどう動くかだ。
「よく見ろ! こんなに素晴らしいだろう!」とアピールすることは簡単だけれど、その効果は期待できない。
やはり、改めて周りから良い反応が得られるものを、評価が得られるものを作るしかない。
本来、同じようなもの、似たようなものを作ることは苦痛である。
一回めは新しいことも多く、試行錯誤の中で楽しみを見つけられる。
だが2回目以降はそうもいかない。
1回目ですでに把握できていることを、作業として繰り返し、そのなかの要所要所で地味な改善を加えていく。
具体性を伴っていないことは承知である。
もしも似たような状況に置かれている人は、そこに当てはめて想像してほしい。
さて、このほぼ繰り返しとなる2回目以降の作業においてモチベーションとなるのが「なにくそ精神」である。
自分では満足しているものを、他人のために作り直すのだ。
そういう気持ちがないととてもやっていられない。
逆に、先に述べた通り「どうしてこれの良さがわからないんだ!」と喚いていても、期待する結果は得られないのだ。
だったら、その憤りを原動力にして前に進む方が建設的であろう。
さて、若い頃にはこの「なにくそ精神」で動くことができた。
最近はそうでもない。
周囲の反応が悪かったとしても「へえ、そんな感じなのか」と思うことが多くなった。
これが良いことなのか悪いことなのかはわからない。
なにくそ精神が原動力になることには間違いないのだけれど、そもそも前提として、その状態になる時点で自分が満足できるものは作れているわけだから、ただの自己満足だけで終わらせておけばいいわけだ。
そう、だから若い頃に比べて、自己満足だけで済ませられるようになった、と言えるだろう。
うん、曖昧な内容の記事になった。
おそらく、今後なにかしら具体的な事象をあげて、この記事を引用することがあると思う。
その時に理解してもらえればいい。
そう、この記事に対して「なにが言いたいのかわからない!」と文句を言われても「そう」としか思わない。
なにくそ精神があれば「じゃあもっとわかりやすく書いてやる!」となれるわけだ。
という簡単な具体例を示すだけにして終わる。