今週のお題「大人になってから克服したもの」
子供の頃は好き嫌いが多くて、小学校の給食の時間が嫌いだった。
毎月、次の1ヶ月の献立表が配布されるのだけれど、それをみながらカレーライスやシチューの日だけを楽しみにしていた記憶がある。
他のものは大抵が「嫌いなもの」だった。
さて、今はどうだろうか。
小学校に戻って給食を食べたいという気持ちがとてもわかる。
あんなに毎日いろいろと違うものを食べられるなんて、幸せな環境だったなあ、と。
(白米でも問答無用で飲み物が牛乳だったのは今も謎だけれど)
いつの間にやら嫌いな食べ物が著しく減っていた。
「食わず嫌い」ではなく「好き嫌い」である。
何せ「給食を残してはいけない」というルールで無理やり食べていたのだ。
食わず嫌いではなく、ちゃんと食べて「美味しくない」と感じていたはずである。
ここで「美味しい」「美味しくない」の基準を考えてみよう。
自宅での食事は、毎日好きなものを食べていた。
メニューはほとんど固定で、いくつかのパターンをループするような感じだ。
つまり、好きなものばかりを食べていた。
母親も、ある程度のパターンが決まっていた方が作りやすかっただろう。
私も私で、晩御飯に何が食べたいか聞かれたら、平気で「昨日と同じものが食べたい」とか言っていたように記憶している。
というわけで、美味しいものを何度でも食べたい私と、慣れた料理を作る方が楽な母親で利害が一致していたわけだ。
そうやって自宅では毎日好きなものばかり食べていたら、給食で食べるようなものは「好きではない」と感じてしまうのも当然だっただろう。
給食を「美味しくない」と感じていたのは、自宅で食べる食事の美味しさと比較した、相対的な美味しさだったと言える。
今にして思えば、給食そのものは別に「美味しくない」わけではなかったのだろう。
けれど、そんな相対的美味しくないに囚われて、普段自宅で食べているもの以外は嫌い、というような子供になってしまっていた。
さて、一人暮らしを始めてからはどうだろうか。
毎日好きなものを食べていることには違いないが、内容はとても質素なものだ。
何せ料理が面倒だし、惣菜を買ったり外食をするとお金がかかる。
そんな具合で、ほとんど毎日同じものを、それもそこそこ質素なものを食べているわけだ。
するとどうだろう。
今まで「相対的な美味しさ」で他の食事を判断していた私である。
自宅での食事、つまり比較対象のレベルがかなり落ちたわけで、結果的に他の食事に対する相対的美味しさは上がることになる。
そんな具合で、特に何か訓練をしたり心持を変えたりしたわけではないけれど、色々なものを美味しく食べれるようになった。
たまに実家に帰って家族で回転寿司なんかに行くと驚かれる。
子供の頃は好きなネタばかりを何度も食べていた。
今は「せっかくの回転寿司なのに同じものばかり食べるのは勿体無い」と感じていろいろと食べる。
親からしたら「好き嫌いが減った」ように見えるだろう。
根本は変わっていない。
基準が変わっただけだ。