ビルドンブング

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認識の違いと推定で行動した結果の後悔について

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かなり抽象的な文章になることを先に断っておく。
(記事タイトルがすでにそうなっているけれど)
具体的な書き方をすると局所的すぎる話になるからだ。


多くの人がそれを「ゴミ」として認識するであろうものを一目につくところに保管している。
確かにそれはゴミ箱に捨てられるようなものではある。
しかし活用方法がないわけではない。
例えばペットボトルなんかは、本体は中身の液体であり、それを飲み終わってしまえばゴミになる。
だが、ペットボトルロケットを作ろうと画策している人であれば、飲み終わってからが本番であり、なんならペットボトルを確保するためにペットボトル飲料を買うわけだ。
その人がペットボトルをストックしていることには意味がある。
しかしその事情を知らない人から見れば、空のペットボトルというゴミを溜めているようにしか見えない。
というような話だ。
それが「ゴミ」であるかどうかは個人の認識であり、自分が「ゴミ」と認識したからといって、誰もがそれを「ゴミ」だと思っているかのような言動をすると、どこかで誰かの琴線に引っ掛かる可能性があるのである。
まあ、この例を極端にするとゴミ屋敷が誕生してしまうので難しいところではあるが。
先のペットボトルロケットの例を使おう。
その人が満足のいくペットボトルロケットが完成したら、もうストックしていたペットボトルはゴミとして処分してもいいだろう。
何本のペットボトルを使えば、満足のいくものを作れるだろうか。
5回ほど試作すればいいだろうか?
というのは仮定の話であり、実際にやってみると想定通りにはいかないものである。
ペットボトルを捨てるなんてことはいつでもできる。
「5本あればいいだろう」という推定の段階で余分なものを捨ててしまうと、後から「捨てなければよかった」となる可能性があるわけだ。
もちろんそうならない可能性もある。
だが可能性として少しでも存在するのであれば、無視しないほうが賢明ではないだろうか?
十分にストックを用意して、満足のいくものができてから、残ったストックを捨てればいい。
「ペットボトルなんてまた買えばいいだろう」という意見がある。
それは、今回の例がたまたま「ペットボトル」だから言えることである。
現実には、手放してしまうとすぐに回収できないものがたくさんある。
発言を取り消せないのと同じだ。
「だろう」で行動すると後悔する可能性を少なからず含むことになる。
意外と、この「だろう」の推定段階で行動してしまう人が多い。
発言も多い。
「決めつけたような言い方」になってしまっているケースである。
これは、その決めつけに同意できる人同士の会話であれば共感を高められるが、そうではない人にはただただ不快である。
一方で「だろう」の状態を言い訳のように使ってもいけない。
ペットボトルロケットが完成したら、潔く余ったボトルは捨てなければいけない。
元々そういう話で捨てずに置いておいたのだから、それ以上引っ張るとただの言い訳に聞こえてしまうだろう。
「ペットボトルロケットを作るためというのは嘘だったのでは? ただゴミを捨てたくないだけなのでは?」という疑念を抱かれることになる。
つまりゴミ屋敷だ。
境界は難しいけれど、意識しておけるように心がけなければならない。
問題は、それを心がけていない周囲に抱く感情のコントロールである。