今は普通にゲームやスマホがあるから、退屈しないのだろう。
それが良いことなのか悪いことなのかは不明だ。
「ゲーム」と言ってしまうとあまり良くないイメージを抱いてしまうけれど、知育玩具があるように、知育ゲームもあるからだ。
ただし、そういうゲームはあまり楽しいとは言えない(少なくとも面白さだけを追求したゲームより)ので、例えば子供を大人しくさせる目的で親が与えるものには使われないだろう。
さて、私が子供の頃はゲームなんてなかった。
存在していたけれど、与えられていなかった。
初めてゲームを買ってもらったのは小学校1年生だったと記憶している。
それまでは何をしていたのか。
自分で遊びを見つけていた。
車での長距離移動の際、後部座席、あるいは助手席に乗せられるわけだが、とにかく暇である。
そんな時、前を走っている車のナンバープレートの数字を四則演算で「10」にするゲームをしていた。
これは、冒頭で言うところの「知育ゲーム」になるのではないだろうか。
他のゲームがある状況では知育ゲームは面白くないけれど、他にやることがない状況であれば、ゲームはゲーム、退屈凌ぎには十分で、楽しかった。
運転している父はともかく、母も暇だったのか、二人でどちらが早く「10」にできるか勝負していた。
この「勝負形式」というのも面白さを高める一因だっただろう。
この辺りは、今にして思えば恵まれた環境だったかもしれない。
与えられたものを享受するのではなく、自分から探しに行く感覚が得られたような気がする。
もちろん、今の子供がその感覚を得られないと言っているわけではない。
しかし、その機会が減っているようには思う。
なんとなく、会社に入ってくる新卒の若い人の言動を見ていると、それを感じる。
「自分から探す感覚をはっきり掴めないまま大人になってしまったのかな」と思わずにはいられない機会が多い。
どうにかそれを伝えて、願わくば掴んで欲しいのだけれど、それがなかなか難しいのだ。
こちらから教えてしまうと、それは「自分から探して見つけたもの」ではなくなってしまうからである。
なんだろう、相手には「教えられた」と感じさせずに、回りくどく仄めかすしかないのだろうか。
それもまた難しい話である。
「そういう社会になったのだ」と諦めるのも一手かもしれない。
「この人は自分から探すことができないのだな」と決めつけて扱うのもまたよろしくないだろう。
抽象的にまとめると、人付き合いは難しいということ。
年代が離れていれば特にそうだ。
子供の頃は自分で遊びを探していた
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