株主優待でカタログギフトが届くと必ず米を頼むので、最近は毎日ご飯を炊いて食べている。
しかし、こう毎日炊いていると、だんだんと慣れてくる。
慣れてくると雑になるのが人間だ。
最初は丁寧に水の量を量っていたが、最近は適当に入れている。
一応、炊飯器にメモリが付いているので、それに合わせて水を入れれば大丈夫なのだが、1合と1.5合の場合のメモリしかついておらず、0.5合だけ炊く際は、自分で量らなければいけなかったのだ。
ちなみに使っているのはミニ炊飯器である。
だが、毎日炊いていれば何となく、どれくらい水が必要かわかってくる。
それにいちいち計量カップで水を量って入れるのも面倒だ。
結果、目分量で水を入れるようになった。
もちろん目分量だから正確ではない。
しかし、気持ち多めに水を入れておけば問題ないことに気づいたのだ。
水が多くても米は炊ける。
水が少ないと芯が残った不味いご飯になってしまうが、水が多い分には雑炊ぽくなるだけである。
柔らかくなって消化にも良いらしいから、むしろ好都合だったりする。
それでも個人的には雑炊よりも普通のご飯の方が好きだから、できるだけ水が多くなりすぎないように心がけてはいるが。
雑に炊くと書いて雑炊と読む理由はここにあるのではないかと、謎の気づきを得ることができた。
もしかしたら、雑な人が水をドバッと入れて炊いた結果生まれたのが雑炊なのかも知れない。
と言いつつ、別に水が足りなくて芯が残ったとしても、生玄米を食べていた時期がある私なら食べれなくもないので、水の量に関しては実質無敵である。
ところで、私が雑になったのは水の量だけではないのだ。
炊飯において、米の浸水は重要視されている。
しかし、別に米を水に浸けておかなくてもご飯はいきなり炊けるのだ。
というか、やってみたら炊けてしまったのだ。
こうなるとやはり浸水という過程をすっ飛ばしてしまうのが人間である。
もともとちょっと固めの炊き加減が好みだったので、浸水させないことでおいしさが損なわれているとは感じていない。
(たまに外食でご飯ものを食べると格段に美味しく感じるが、それは米や炊き方ではなく、おかずの有無に起因していると解釈している)
最低でも30分確保していた浸水時間が不要となり、今は米を炊こうと思った30分後には炊けた米が食べれる状態になっているのだ。
まあ、炊けるまでの待ち時間があることで逆に時間を有効活用できるという説もあるが、別に炊くのを待つ以外の時間が有効活用できないわけじゃないので、そこは考えようである。
しかし、一人暮らしとはこういうものかも知れない。
実家暮らしの時、母親があらかじめ米を水に浸けているところを見てもなんとも思わなかったが、いざ自分がそれをするとなると、できるだけ手間は省きたいものである。
しかし、私は母親に「別に浸水させなくても炊けるよ」と教えるつもりはない。
自分以外が炊いてくれるのなら、できるだけ手間をかけてもらって、美味しいものを食べたいからだ(しめしめ)。